薬師沢左俣

2015年8月11日、12日

参加メンバー 仙人、幻舞


 今年のお盆休み山行だが、早くから幻舞が「剱岳源治郎尾根」を主張していた。しかし、なんやかやでメンバーの休みが合わず、BJは全く無理で、かろうじて11日、12日の2日間だけ仙人と幻舞の休みを合わせることができた。

 当初は、12日に剱沢を早めに出発することで、源治郎尾根から剱岳に登って、その日のうちに室堂発のアルペンルート最終に間に合わせて下山することも可能と踏んでいたが、やはりお盆休みの人気ルートで入山者はそれなりに多いだろうし、前にモタモタしているパーティがいたらもう時間切れということで、源治郎尾根はやめて薬師沢左俣へ沢登りに行くことに予定を変更した。

 薬師沢左俣は、2010年に仙人,BJ、幻舞、白髭の4名で行くことになっていたが、幻舞が仕事の都合で参加できなくなってしまい、3人の「良かったヨーーーー」という土産話にじたんだふんで悔しがるという、幻舞にとってはお預けをくったままの沢だった。


今回の計画は

11日:折立〜太郎平〜薬師沢小屋(泊)
12日:薬師沢小屋〜薬師沢左俣〜北ノ俣岳〜太郎平〜折立

今回は経済性よりも背中の軽さを優先し、豪勢(????)に小屋泊まりとし、沢登りと同時に岩魚釣りも楽しもう(というか岩魚釣りがメイン?)という極めてお手軽なパターンである。


8月11日

 有峰林道の神岡側ゲートに午前4時半頃到着。お盆休みなので先行車が数台はいると思っていたが、予想に反して我々が一番乗り。ゲートが開く午前6時まで仮眠を取る。結局、ゲートが開くまでに来た車は我々ともう1台だけだった。

 さすがにお盆休みだけあって、折立の駐車場は凄いことになっていた。駐車場の200mくらい前から路駐の列。路駐の列の所々に空きスペースがあるので止められないということはなさそうだ。ダメ元で駐車場まで行ってみると、ラッキーなことに2台分のスペースが空いていた。

 無事車も止められたのでさっさと準備してさっさと行動開始。明日の薬師沢左俣だけではなく、今日もチョロッと竿を出すことになっているので、早めに沢に入れればそれだけ釣りを楽しむ時間が増える。
 
   
 駐車場。かろうじて2台分のスペースがあった。写真に路駐は
見られないが、カーブの先は路駐の列が200m
 登山口のこの建物は、仙人によるとン十年前から変わっていない
 とのこと。 
   
   
登山開始から三角点までは風通しが悪く、見通しのきかない樹林帯の登りが続く。どこの登山もそうだが、アプローチの樹林帯は景色も楽しめず、おもしろみが全くないのでとにかく辛い。


 
 登山口から約1時間で樹林帯を抜け三角点に到着。ここで本日最初の休憩を取る。

 登っている途中はあまり登山者を見かけなかったが、三角点では大勢の登山者が休んでいた。
   
   
 
 
 9:48分、太郎平小屋に到着。

 小屋泊まりで背中が軽いせいもあり、かなり飛ばした結果、折立からここまで2時間45分。標準コースタイムが5時間なのでかなりのハイペースだった。

 太郎平付近はチングルマの群生が見事で、今の時期は綿毛と花と両方を見ることができる。
 
 
 太郎平小屋から薬師沢に向かう。木道の部分を過ぎると急な下りが薬師沢と太郎沢出合いの橋まで続く。 

 出合いにかかる木橋。今日は薬師沢小屋に行くだけなのでまだ時間はタップリある。

 このまま小屋に行ったのではいくらなんでも早すぎるため、ここで竿を出してることに。
  

 竿を出してものの数分で仙人が最初の一匹を釣り上げた。負けじと幻舞もその10分後に最初の一匹。

 型は小さいが、さすがに天然の岩魚は美しい。竿を出していたのは約30分くらいだが、釣果は仙人と幻舞で合わせて6匹。

 
   
 
 適当な所で釣りを切り上げ、薬師沢小屋に向かう。明日遡行予定の薬師沢左俣(下左写真)で再び竿を出して試し釣り。

 沢を渡る橋の上流に仙人、下流に幻舞が入ったが、仙人が一匹釣ったのみで幻舞はオケラだった。

 カッパ伝説のあるカベッケが原を通過。しかし、黒部の山賊こと鬼窪氏などの本を読むと「カベッケが原は薬師沢と黒部川の出合いで河原が広くなっているところ」とあり、幻舞もそのような場所を想像していたが、実際は下右写真の笹原。

 
 
 13時30頃に薬師沢小屋に到着。本日の宿泊客は30名程度らしく、32名定員の食堂で食事も一回戦とのことで、1人布団1枚でゆっくり休めそうだ。

 時間があるので仙人は黒部本流を今度はルアーで攻め、幻舞は初めて見る黒部源流を長めながら写真など撮りつつまったりと過ごす。

   
 
 薬師沢小屋の様子。窓の外は薬師沢と黒部川の出合いが見え、ベランダもあって快適に過ごせる。

 宿泊手続きの際、翌日の予定を聞かれ、左俣の遡行と伝えると、5日くらい前に遡行した人から例年になく水量が多いとの情報が入っているので注意するようにとのこと。黒部本流も例年より水量は多いそうだ。
 
 一応素直に「注意します」とは言っておいたが・・・・

 ここへ来る途中に見た左俣は特に水量が多いようには見えなかったし、何回もここに来ている仙人にも水量が多いとは思えなかった



8月12日

 予定では5時頃に出発だったが、3時頃になるとゴソゴソはじめる人などもいて、結局4時半頃に行動開始となった。足元は小屋から沢靴を履いていく。

 小屋から左俣出合いまでは約1時間。フェルトソールの沢靴で登山道を1時間歩く気にはならないが、仙人、幻舞とも沢靴はアクアステルスソール(ゴムソール)のウォーターテニーなので、登山道の歩行も全く問題ない。

 アクアステルスソールは、茶ゴケのついた岩のグリップはフェルトに劣るが、濡れた岩のグリップは同等だし、乾いた岩のグリップはフェルトを遥かにしのぐ。沢登りといっても、半分以上は乾いた岩の上を歩いたり、よじ登ったりすることになるので、トータルとしてみればフェルトよりもゴムソールの方がメリットは大きいように思う。

 また、フェルトソールは遡行終了後に靴を履き替え、濡れたままザックにしまうとフェルトが水を吸ってかなり重くなっているが、ウォーターテニーは布の部分が薄いので重さがほとんど変わらない。こんな所もメリットの一つだと思う。
   
   
 5時半頃左俣に到着。

 今日中に下山しなければならないが、有峰林道ののゲートが閉まるのは19時なので、ここから逆算すると、若干の余裕をみて折立に18時、太郎平に14時、北ノ俣岳に12時が目安となる。

 釣りをせずに左俣を遡行すると北ノ俣岳まで4時間程度らしいので、釣りに使える時間は約2時間ということになる。

 昨日の試し釣りの結果から、登山道付近はそれなりに釣り師が入っていると判断し、ある程度遡行してから竿を出すことにする。
 
   
 
 ほんとうなら、岩魚止めの滝の上までは竿を出さずに行くつもりだったが、あまりの渓相に幻舞が我慢できなくなり、予定よりもだいぶ下流から竿を出す。

 釣り初めて10分で一匹目。その後もそこそこのペースで釣れてくる。
   
 
 ほとんどは竿を片手に持ったまま遡行出来るが、所々にある小さな滝を越えるときはさすがに「片手で」というわけには行かず、竿をたたんだりまた出したりを繰り返しながらの釣りと遡行が続く。
   
 この滝が左俣の核心と言われている滝。右の草付きを巻くルートもあるようだが、今回は水流右側のリッジ状を登った。このような場所はアクアステルスソールが本領を発揮する。

 乾いた岩でのアクアステルスソールのグリップはちょっとしたクライミングシューズ並みなので、このような手がかりに乏しいところも靴のグリップで登っていける。

 それにしてもこの沢の渓相は素晴らしい。何年か前に那須岳井戸沢を遡行したことがあり、井戸沢は「黒部源流部に匹敵する渓相の沢」とのふれこみだったが、黒部源流部を知っている仙人、BJは「黒部には比ぶべくもない」と言っていた。今回が黒部初見参の幻舞も、左俣の渓相を見て仙人、BJの見解におもいきり納得。

 とにかく沢が綺麗だ。沢のつきものである流木も驚くほど少ない。というかほとんどない。水も透明度が高いのか、キラキラしているような気がする。

 薬師沢小屋で忠告された水量も全く問題なし。というか、写真の通りこれ以上少なかったら逆に少なすぎるのでは?って感じの水量。5日間で水量が減って平水に戻ったのか、情報を発信した人が正確な判断力がなかったかのどちらかだと思う。

   
 
   
 滝は全て直登できたが、唯一巻いたのがこのゴルジュ。一見すると簡単に突破できそうに見えるが、落ち口の壺が深く、足場もないためどうしても泳がなくてはならないのと、落ち口が若干ハング気味になっているようで、沢の突撃隊長BJも落ち口まで行って諦めたらしい。 

 幻舞が巻かずに突破しようとして奥まで行ったが、仙人からBJが諦めたと言うことを聞いてあっさり回れ右。
   
 巻き道はゴルジュ右側の灌木帯にある。ゴルジュ手前で右手から左俣に合流している支沢を30mほど登ったところから灌木帯に入るが、踏み跡はかなり不明瞭だが、適当に藪を漕いでいけばゴルジュの上に出られる。

 下左の写真が右の支沢から左俣を見下ろしたところ。この地点から灌木帯に入る。

 下右の写真が灌木帯に入ったところ。ちょっと登って左にトラバースし、ゴルジュの上を藪漕ぎで進む。

  
   
 
 巻き道から左俣への降り口。よく見ると仙人が写っている。

 結局、左俣の核心部は下部の大滝ではなく、このゴルジュの巻き道だった。

 ちなみに、左俣沢は、大きな支沢が2本、右から合流しているが、仮に間違えて支沢に入ってしまっても簡単に稜線の登山道に出ることは可能なようだ(あくまで見た目だけの判断だが)。

 ただ、支沢に入ってしまうとショートカットになってしまい、左俣沢のハイライトを体験することができなくなってしまう。
 
 ゴルジュの上もいくつかの滝が連続するが、いずれも簡単に突破できる。

 ここまで登ってきて、しかも滝が連続していてもまだ岩魚の魚影が確認できるのには驚いた。
 
 黒部に職業漁師がいた時代に漁師が滝の上に放流した魚の子孫だと思われる。

 職業漁師の本によると、放流して6年くらいすると商売になる程度は増えるようだ。(もちろん明治〜昭和一桁の時代の話し)
   
    
 
 この日幻舞が釣り上げた最後の岩魚。どう見ても岩魚止めに見える滝の上にもまだ岩魚がいる証拠。

 下左写真の滝壺で釣った魚だったと思う。下右写真は最後の一振りをしている仙人。

 ここまで予想以上の釣果があったので、ここで釣りは切り上げ、遡行に専念することにした。
   
 

 最後の滝を過ぎると、渓相が急に穏やかになってきた。

 
   
 
 そして現れたのがこのお花畑。 写真では草原にしか見えないが、実際は一面のお花畑になっている。まさか沢の詰めにこんな素晴らしいお花畑が待っているとは思っても見なかった。

 言葉で言い表すのは非常に難しいが、かの開口健氏の

  「筆舌に尽くしがたい」とか「言葉を飲んだ」というのは作家として負けだ。プロである以上、なんとしても文章で読者にすばらし   さを伝えなければならない。

 という言葉を思い出し、素人ながらも必死に文章を考えてみたが、やっぱり出てこない。まさに天上の楽園、天国への詰めとはここのことだ。

 「もしかして俺はあの滝で直登に失敗して落ちて死んでいて、ここは天国なんじゃないか」

 と5%ほど本気で考えたほど。
 
   
   
 
 お花畑と詰めの稜線。いちばん右側の雪渓の右を回り込んで稜線に出た。

    

 詰めの穏やかな流れ。驚いたことに、ここにも岩魚の姿が確認できた。

 この写真のところから最初の一滴まではわずか100mくらい。

 さすがに、この厳しい環境で生き抜いている岩魚を釣ろうという気にはならなかった。
 
 詰めは決まったルートはなく、歩きやすそうで効率よさそうな所を適当に登っていく。

 稜線の登山道に出たら太郎平に向かうので、なるべく右を登った方が効率がよい。

 
 
 天上の楽園、天国の詰めを稜線直下から見下ろす。ここから見ると詰めの様子がよくわかる。

   

 稜線直下のお花畑。

 植生を踏みつけるのはかなりの抵抗があるが、一面のお花畑で植生を踏まずに稜線に出るルートがない。

 ただ、踏みつけても足をどかしてみると折れたり、潰れたりはしている様子はなく、同じ所を何度も踏みつけなければダメージはほとんどないと思われる。
 
 

 10時30分に稜線登山道に出る。

 北ノ俣岳まで約200mくらいのところ。人気の山域だけに登山者が多かった。

 北ノ俣岳から太郎平小屋まで、見た目は近く見えるが、歩いてみるとかなり距離がある。

 沢登りは足が冷えるせいか、登山道に出てから下山までがかなり辛く感じる。
   
   
 北ノ俣岳山頂で眺めの休憩を取り、太郎平小屋を目指す。予定よりも時間が早いので、太郎平小屋で名物(?)のラーメンを食べ、お腹も落ち着いたところであとは折立目指して駆け下りる。

 おじさん2人でがむしゃらに飛ばした結果、太郎平から折立まで2時間を若干切るタイムだった。




おまけ 黒部の職漁師

 昭和38年の黒部ダム完成までは、黒部川には岩魚釣りを生業とする職漁師が存在していた。有名な所だと(幻舞が知っている範囲で)古い順から遠山品右衛門(通称しなえむ)、品右衛門の息子の富士弥、富士弥の従兄弟の遠山林平、黒部の山賊こと鬼窪善一朗、黒部最後の職漁師 曽根原文平氏など。

 遠山品右衛門以外の職漁師は活動時期が数年重なっていた時期がある。また、富士弥と曽根原氏は富士弥が山を降りるまでの2年間組んで漁をしていたし、鬼窪氏は林平の弟子だった。

 曽根原氏と鬼窪氏も組んでというレベルではなかったようだが、一緒に漁をしたこともあったらしい。

 彼らが活動していたのは黒部川上流部の全域にわたり、下ノ廊下から源流部まで、それぞれが縄張りをもって職漁を行っていた。

 黒部川に小屋を作り、そこに寝泊まりしながら1回の漁で10日〜30日くらい黒部に入り、名人と言われた遠山林平などは1日150〜200匹も釣ったそうだ。

 釣った岩魚はその日のうちに串に刺してある程度焼き、次に囲炉裏の上に置いた網状の板に並べて燻製にしていた。焼き上げから燻製が完成するまで3日間かかったという。林平が200匹以上釣らなかったのは、それ以上釣るとその日のうちに焼き上げることができなくなるのと、入れ物が一杯になってしまって小屋まで運べなくなるからだそうだ。

 燻製にした数千匹の岩魚は上高地や白骨温泉などの旅館で引っ張りだこで、一夏でかなりの収入になったようである。旅館では燻製の岩魚をお湯で戻し、甘露煮などにしてお客に出していたらしい。

 職漁師のなかでも林平の岩魚釣りは芸術の域に達しており、毛針を振り込むと着水と同時に岩魚が食いつき、そのまま竿を上げると針にかかった岩魚は空中で針から外れ、そのまま腰につけた魚籠にスッポリと収まったという。伝説に近い話しなのでどこまで本当なのかわからないが、相当な腕前であったことは間違いない。

 それにしても、昭和30年代前半までは黒部には職漁師が成り立つほど岩魚がいたというのは確実で、毎日100匹以上、一夏に数千匹釣られても翌年にはまた同じように釣れるという、現在からすれば夢のような環境が黒部にはあった。(岩魚はいくら釣っても減らないので川のウジと呼ばれていたらしい)

 この環境が劇的に変化したのが黒部ダムの完成と昭和44年の台風で、特に台風の被害は凄まじく、岩魚はほとんどが流されて死んでしまい、岩魚のすみかであった淵や滝壺も土砂で埋められてしまったという。

 いつの日か、夢のような黒部が蘇ることを願わずにはいられない。

 



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